掲載1 健康戦略としての未病
私は講演をする機会があると会場の参加者に最初にお願いする事がある。一つの儀式でもある。その儀式とは「未病という言葉をこれまで聞いたことがある人、手をあげて下さい」と問うのである。これまで16年間やってきた。
参加者数が約100名とすると最初のうちはその中で手を挙げたのは二人か三人でこれが関の山であった。それがいつしか5%台に達しその後30%となった。未病の名前を知っている人が少ない方が講演のやり甲斐があったものである。
50%以上に達してからはこの儀式をあまりやらなくなったが、先月思い切って聞いて見た。案の定、全員が手を挙げた。念のため「では聞いたことがない人」と裏をとった。手を挙げる人は誰もなかった。
未病は今や言葉としては100%の認知率である。これは某健康酒会社のテレビコマーシャルの力によるところが多いと思うが、こういった会社が未病をコマーシャルとして採用するのも、長く続けたからだからこその賜物かと思う。
この16年の間、未病と言う言葉を馬の念仏のように言い続けてきた甲斐があったというモノである。「本物は続く、続けると本物になる」誰が言い出したか知らないがこれはけだし名言と言おうか。
さて、未病と言う言葉に続き、国家戦略という言葉が2009年の9月からいやに耳に付くようになった。戦略という言葉は団塊の世代にとっては封印されていた忌避用語の一つである。言葉として出すと、後ろから何か言われそうな感じを抱く言葉でもあると感じていた。
それが堂々と平和憲法を旗印に自称する政党から発信されてきたのでびっくりした。しかし平和ぼけによる怠惰と飽食の世界に埋没している世代には背筋がぴりりとする感じで新鮮な響きに聞こえてくる。堰を切った川の水のように今や各会社ではこの戦略を冠した○○戦略会議なるモノが幅を利かせている。
実は未病と言う言葉はこの戦略用語として用いられたことがある。“兵が押し寄せてきてから壕を掘るのでは遅すぎる、未病に習って敵が攻めてくる前に先に掘っておくことである”と2000年以上も前の医学書である黄帝内経にはそう諭されている。
病気になってしまってからの対策を練るのは藪医者であり、名医は病気になる前の未病で対策を練るという言葉がこの元である。原本では「聖人は已病を治さず未病を治す」と出ている。この黄帝内経は後漢の時代に出来た。作者不明であるが、なかなか言い当てている。
この中に「今の若い者は美食飽食や性堕にふけり運動不足であり、昔の人と比べると弱くなった」と嘆いている節がある。耳に痛い事が書かれているが、いつの世も人間の弱さには変わりないなとホッとしてしまう。この未病の概念は検査など無かった時代のまさしく昔の人の健康への戦略であり、病気という敵に打ち勝つ基本的心構えであったのだろう。
さて、少子高齢時代今や国民皆保険制度のもとにある医療システムもいつまで持つかはおぼつかない状態である。早くもそのプレリュードかどうか知らないが漢方薬が仕分けされそうになっている。少子高齢時代で医療費の高額化が問題とされる。この現代の医療情勢を仕切る名医はいないモノだろうか。
そこでこの未病の概念を健康への戦略として用いるのはどうだろうか。国民皆保険制度を維持する戦略として現代に未病を活用するのである。まだ病気になっていない未病の状態であれば国民一人一人のちょっとした努力で改善できる。
自分が自分の身体の未病の医者になるのである。ちょっとした努力でも積もり積もれば未病の改善に向かい少子高齢時代の社会保障制度は継続が出来、安心と言うモノである。例えば特定検診での応用である。いわゆるメタボ健診である。
痛くもかゆくもないが腹回りで男性85cm女性90cm以上は高脂血症、糖尿病、高血圧になりやすい。そこをチェックしていこうとするのが特定健診制度であるが、そう仰々しくならなくても未病の概念を知っていればスムーズに出来る。この特定健診・特定保健指導制度はあと4年でひとまず結論が出る。
健診受診率が低くかったり、保健指導による改善率が悪いと所属している保険者にペナルティがかせられる。保険料の最高10%がさっ引かれ後期高齢者医療にまわされる仕組みだ。世代間での相互依存はなるべく負担をかけないようにしたい。健康を守るシステムも未病のうちに建て治しておきたいモノである。