ウィルスは生物の定義から外れており、地球上における生物直前の存在あるいは構造物といえます。細胞内の、ほぼ核だけの構造体です。DNAかRNAの複製部分を持っており周囲にエンベロープというわずかの脂質あるいは糖タンパク質の被膜を有しています。この被膜の脂質を壊すことができるのはアルコールですから、手洗いに高濃度アルコールが有効であり、石鹸や洗剤も有効となります。この場合有効とはウィルス被膜構造の破壊を期待できるという事です。DNA成分あるいはRNA成分は壊れませんが、環境内には豊富にこれらを破壊する酵素(DNアーゼやRNアーゼ)があふれています。ですから、被膜が破壊されれば、一応ウィルスは消滅したという事になりましょう。
このウィルスの被膜構造は細菌の菌体膜とは全く異なります。細菌の菌体膜は脂質と多糖類からなります。明治時代に世界で活躍されたデンマーク人のグラム先生が開発したグラム染色によって、地球上の細菌は陽性群と陰性群に大別されます。細菌の菌体膜の構造のちがいで、染色後の色が異なります。例えば大腸菌はグラム陰性菌ですし、ブドウ球菌や結核菌はグラム陽性菌です。この違いが抗生物質であるペニシリンと深いかかわりがあります。
いずれにしましても、こうした異物はヒトにとって異物であり、非自己です。鼻粘膜や口腔からの気道系あるいは消化管系では、これらが体内に入ることを様々な防波堤で食い止めて、体内に入らないようにしています。体内に入ると免疫監視が応答を始めることになります。このスタートを握る細胞が自然免疫系のマクロファージです。異物が体内に侵入した段階で、異物を貪食した多数のマクロファージは細胞表面に多数の抗原断片(エピトープ)を提示します。このありさまをイメージして、マクロファージはさながら千手観音かなとおもいます。たくさんの手に様々な抗原断片を提示して、対応するTリンパ球とBリンパ球にIgM特異的抗体産生を促します。2度目の攻撃では、より強力に、そしてより鋭い特異性の高いIgG抗体産生がBリンパ球からさらに抗体産生に特化した形質細胞が多量に分泌することになります。これが獲得免疫系です。このIgG抗体が同一の異物を排除できる能力(オプソニン効果)があると、完全抗体といって血清療法に使える抗体となります。つまり完全抗体を生み出せる抗原を、ワクチン効果ありと言えます。不完全抗体は多くの機会に産生されます。これにはオプソニン効果はないので、この抗体を産生する抗原物質はワクチン使用には不適当となります。
細菌感染には抗生物質が威力を発揮して、ほとんどの細菌感染の治療薬となるので私たちは安心して生活できています。これは青カビ変異型を材料としてペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミングの功績は筆舌に尽くせません。
ペニシリンはグラム陽性菌の菌体膜形成に必要な細菌酵素を破壊することで、グラム陽性菌の生存を止める力があります。細菌あるいは真菌たちが自然界で戦いあっているという事実をだれが想像したでしょうか。土中の放線菌からストレプトマイシンをワックスマンは発見し、「抗生物質」antibioticsと名付けました。日本人の梅澤濱夫先生もその一人で、カナマイシンは有効です。その後の抗生物質の開発と発展はグラム陰性菌に対しても有効なバンコマイシンあるいはメシチリンも登場しました。しかし細菌もDNA突然変異を持続して、耐性菌が登場することになります。
一方、抗ウィルス薬はどのようなものかといいますと、核酸アナログというウィルスのDNAあるいはRNAの塩基配列形成を阻害しようというもので、これらは細菌の菌体膜を通過しえないと考えられており、細菌の核酸とは全く異なるわけで、細菌感染を治療する事には使用されません。例えばC型肝炎ウィルス(RNAウィルス)に使用される核酸アナログ剤は内服できるようになっており、20世紀では考えられないような時代です。
一般的に、DNAウィルスは塩基配列に変異が起きにくいのですが、RNAウィルスは塩基配列変異が起きやすい性質があります。インフルエンザウィルスはRNAであり、変異しやすい。インフルエンザ治療薬のタミフルは、ウィルス被膜に存在するノイラミニダーゼという酵素の阻害剤で、ノイラミニダーゼは感染細胞内で増えたウィルスを細胞外に放出する際に働きます。タミフルはこの酵素を阻害することで、治療効果を得ようとする感染早期治療薬です。またウィルス同志を凝集させて、細胞感染を防ぐ効果もあるようです。インフルエンザウィルス対策にはアビガンもあります。
COVID-19もRNAウィルスで、SARSやMERSと同様のコロナ系のウィルスです。開発中の抗ウィルス薬のレムデシビルは核酸アナログであり、細胞内でのウィルス複製を阻害しようという物質です。
RNAウィルスのRNA塩基配列が変異しやすいという性質は大変厄介で、これは核酸アナログでウィルス塩基配列の複製ブロックがかけにくいということになります。またこのことはワクチン作成の抗原が一定しないということであり、ワクチン注射がヒトに完全抗体の産生を妨げる可能性が高いのです。
いずれにしましても、ウィルス感染と細菌感染に対する治療の標的は根本的に異なるので、抗ウィルス薬は細菌には効かないのです。
東京脳神経センター(病理/内科)
遠藤 雄三(えんどう ゆうぞう)氏
昭和44年(1969年)東京大学医学部卒。虎の門病院にて免疫検査部創設・部長、病理/細菌検査部長を務める。その後カナダ マクマスター大学健康科学部病理・分子医学部門客員教授、浜松医科大学第一病理非常勤講師、宮崎県都城市医療法人八日会病理顧問・看護学校顧問を経て、現在、東京脳神経センター(病理/内科)。免疫学・病理学・分子医学の立場からがん・炎症の研究を進め、発表した論文は110報以上。
<主な研究課題> 生活習慣病予防にかかわる食物、サプリメント、生活習慣病と公衆衛生、IgA腎症と粘膜免疫とのかかわり、頭痛と首コリの解消、人体病理学、臨床免疫学、実験病理学
・掲載4 「ホモ バネ仕掛け」の頚と「新型うつ」
・掲載3 首の構造と頭痛=頭皮痛のおこりかた
・掲載2 体験/炎症とは
・掲載1 はじめに
・掲載6 感染症予防には手洗い、うがい、そして免疫をケアしよう
・掲載5 細菌感染と抗生物質:抗ウィルス薬は細菌には効かない
・掲載4 ウィルス感染症の治療と予防:抗ウィルス薬、血清療法、免疫
・掲載3 風邪、天然痘とSARS、MERSそして変異型コロナウィルス
・掲載1 ウィルス感染と免疫システム
・掲載22 自己とは?非自己とは?(22)過敏性腸症候群/食物アレルギー
・掲載21 自己とは?非自己とは?(21) 大腸と腸内細菌
・掲載20 自己とは?非自己とは?(20) Bリンパ球/IgA
・掲載19 自己とは?非自己とは?(19) パイエル板
・掲載18 自己とは?非自己とは?(18) 消化管の蠕動(ぜんどう)運動
・掲載17 自己とは?非自己とは?(17)粘膜免疫
・掲載16 自己とは?非自己とは?(16)腸管免疫
・掲載15 自己とは?非自己とは?(15)免疫と消化管
・掲載14 自己とは?非自己とは?(14)ウィルスと自己
・掲載13 自己とは?非自己とは?(13)妊娠とABO式血液型不適合
・掲載12 自己とは?非自己とは?(12)移植
・掲載11 自己とは?非自己とは?(11)輸血と免疫
・掲載10 自己とは?非自己とは?(10)Ⅲ型アレルギー/自己免疫疾患
・掲載9 自己とは?非自己とは?(9)Ⅱ型アレルギー/血液型
・掲載8 自己とは?非自己とは?(8)抗生物質の発見/一型アレルギー/免疫グロブリン
・掲載5 自己とは?非自己とは?(5)急性炎症:日焼けと免疫反応
・掲載4 自己とは?非自己とは?(4)炎症
・掲載3 自己とは?非自己とは?(3)アレルギー
・掲載2 自己とは?非自己とは?(2)自己の確立②
・掲載1 自己とは?非自己とは?(1)自己の確立①
・掲載6 からだの防御システム(6)特異的免疫細胞たち:リンパ球
・掲載4 からだの防御システム(4)免疫ホメオスタシス/感染症と炎症
・掲載3 からだの防御システム(3)「食-医同源」
・掲載2 からだの防御システム(2)新型インフルエンザウィルス
・掲載1 からだの防御システム(1)はじめに:「病気」、「病態」そして「病 名」
・掲載21 頭頚部がん(2)
・掲載20 頭頚部がん(1)
・掲載19 多発性骨髄腫(3)
・掲載18 多発性骨髄腫(2)
・掲載17 多発性骨髄腫(1)
・掲載16 おとなの進行がんの治療戦略(2)
・掲載15 おとなの進行がんの治療戦略(1)
・掲載14 子宮がん(2)子宮内膜がん
・掲載13 子宮がん(1)
・掲載12 肝細胞がんに対する予防戦略 3)ウイルス排除と抗炎症対策
・掲載11 肝細胞がんに対する予防戦略 2)肝硬変と慢性炎症
・掲載10 肝細胞がんに対する予防戦略 1)肝細胞がんのおこり方
・掲載9 前立腺がんに対する戦略
・掲載8 乳がんに対する戦略
・掲載7 肺がんの予防戦略
・掲載6 環境要因による胃がん予防
・掲載5 大腸がんに対する防衛戦略
・掲載4 生活習慣病としてのおとなのがん
・掲載3 抗生物質から抗がん剤開発へ
・掲載2 現代医学と病理学
・掲載1 はじめに