人類の歴史を振り返ってみますと、中世のころ今ではまれなペスト、コレラ、赤痢、疫痢、ジフテリアなどの急性の細菌感染症で滅亡する諸都市が続出しました。ヨーロッパでのペスト騒ぎ、コレラ騒ぎはヨーロッパのある都市の人口を1/3に激減させたといった歴史的記載や物語にさえなっています。当時のヨーロッパの都市の衛生状態は、江戸時代の江戸にくらべて大変ひどいものでした。
ヨーロッパでは19世紀になると、都市の街中を清潔にすることの意義が、つまり「衛生」という思想が根付いていきます。19世紀のドイツ医学は世界に先駆けていて、光学顕微鏡を医学医療に導入したルドルフ・ウィルヒョウは現代医学の父であり続けています。ロベルト・コッホによって細菌学が発展していきます。細菌抗原に対する抗体産生の仕組みや免疫系の奥深さの解明の糸口が開発されていきます。前回内容の最後で登場したエーリッヒ先生もその一人ですし、梅毒の治療薬であるサルバルサンの発見者でもあります。一方、ベーリングはジフテリアの外毒素に対する抗毒素を馬で造り出し、それをジフテリア患者の血液中に投与する血清療法(毒素抗毒素療法)を開発し、臨床導入しました。これは人体内で起こる抗原、抗体、補体という免疫複合物形成がマクロファージによる貪食効果(オプソニン効果)をもたらして、体内からの外敵排除の仕組みを応用したものでした。これは受動免疫というしくみです。
COVID-19に対しても、完治した患者さんの血液は大変重要な治療剤です。これは数回しか有効ではありませんが、ワクチン治療開発までの急場しのぎの治療法になる可能性があります。抗原に対する抗体物質(免疫グロブリンのM型=IgMとG型=IgG)の強さ(量)は個人差が大きいのです。治療に使った他人の抗体に対して患者さんはその人の免疫グロブリンに対する抗体をつくってしまいますので、投与は数回に留まるはずです。拒絶反応が起こると、致命的なサイトカインストーム(嵐=混乱)を起こしてしまうのです。
インフルエンザウィルス以外の風邪症候群の原因の多くは、連鎖球菌やブドウ球菌などのグラム陽性菌の急性咽頭炎や鼻炎ですから、抗生物質は特効性があります。では抗生物質はいったい何者でしょうか。将来抗生物質となるペニシリンの発見者はアレクサンダー・フレミングです。ロンドンのセントメリー病院で、接種科という部門の助手でした。病理学と細菌学の研究者でもありました。細菌を純粋に培地に培養する方法は、細菌研究の第一歩です。その培地というお皿の様なペトリ皿に寒天培地を作ります。研究中のブドウ球菌を純粋に培養していました。ある時、培養された細菌のペトリ皿に隣の研究室の青カビが混入してしまったのです。あるときその細菌の生えている場所が、黄色っぽい緑色のカビによって溶けてしまっているのです。はじめ、彼は大失敗と落胆したのですが、「なぜカビが自分の培養している細菌を溶かしてしまったのだろう」と自問自答を繰り返す。閃いて「カビが自分の細菌を撃破したのではないか」。この緑色のカビはペニシリウム・ノターツムというカビでした。かれは、カビの物質をペニシリンと名付けたとあります。彼はこの事実を1929年に英国病理学会で発表しましたが、だれも見向きもしませんでした。
それから約10年後、第二次世界大戦が厳しくなる中で、兵士たちが戦場で外傷性の急性感染症でなくなることが多く、英国総司令部では重大問題だったのです。オクスフォード大学の病理学者であるフローレイらが総司令部からの命令を受けて、感染対策をすることになります。過去の医学論文をしらみつぶしに調べて、偶然にフレミングの研究論文を見つけます。ペニシリンにたどりついて、数年の間にフローレイグループは青カビの大量培養、抽出物の分析、精製、薬品化に仕上げていきました。
細菌感染による外傷、肺炎の他に様々な急性細菌感染症には、ペニシリンは特効性があり、第二次世界大戦以降の世界を一変させることになります。その後、青カビが産生する抗菌作用ということは生物同士が戦うという意味であり、その概念をワックスマンは「抗生物質」anti-bioticsという名前で呼ぶことを提唱しました。ワックスマンはストレプトマイシンを放線菌という土壌細菌から抽出します。土壌細菌を研究することで多数の抗生物質を発見した梅沢浜雄先生は日本人として世界的に有名でした。
ペニシリンは人類史の中で最も忌み嫌われていた結核症、梅毒、ハンセン氏病のような細胞内寄生する特殊な細菌にも有効であり、いずれも撲滅に近い状況となりました。ペニシリンの薬理作用は細菌細胞膜多糖類を形成するしくみを破壊する作用がありますので、同じような細胞膜の構造を持つすべての細菌に効果があります。ウィルスは細胞ではなく、生き物ではありません。細胞膜は無く、構造は全く異なりますので、抗生物質は全く無効です。抗ウィルス薬はDNAあるいはRNAの形成や付属するタンパク質形成にかかわる仕組みを妨害するような作用をヒトの細胞内に取り込ませて働かせるというきわどい薬物なのです。人類史上もっとも重要で有名なヒト感染性のウィルスは天然痘です。これも大変な病気を人類に引き起こしました。全身に皮膚がただれるようなアバタができたり、目玉がつぶれたりする全身病でした。イギリスのジェンナーの開発した種痘によって天然痘は地球上から根絶状態です。ヒトの天然痘ウィルスによく似た牛の天然痘(ワクシニア)ウィルスを使ってヒトの免疫系に抗体産生を起こさせるというという理論が確立して、現代のワクチン療法の先駆けとなりました。ちなみに牛痘の名前はワクシニアで、この名前からワクチンということばが生まれました。一日も早くCOVID-19のワクチンが待望されているゆえんです。
ウィルスは大きく分けて、DNA型あるいはRNA型と分類されます。細胞でいうと核だけの構造物といってよいでしょう。これが生物にとりついて、細胞に寄生して、自分と同じものを造り出すという存在です。様々な形をとるのですが、コロナウィルスはRNAウィルスで、表面に太陽の表面にある光の冠の様な構造に似た王冠(コロナ)様突起(スパイク)をもっています。ウィルスはある種の動物の細胞表面のアンテナの様な構造物のある細胞だけに寄生することができて、種特異性といいます。例えばコウモリだけに感染していたコロナウィルスが、気道系や肺の細胞内(臓器特異性)に侵入すると、自己複製して増殖して細胞を破壊すると、前述のアラキドン酸という起炎物質が遊離されて、炎症反応を引き起こすことになります。このウィルスが変異して、ヒトの気道系や肺の細胞に侵入できるようになったのが、COVID-19です。ウィルスのRNA複製を破壊するような薬の開発が最も重要な戦略です。2002年と2003年に発生したSARSと2012年に発生した中近東のMERSはコロナウィルス系のRNAウィルスで、肺炎を中心に全身性の急性炎症を引き起こします。
東京脳神経センター(病理/内科)
遠藤 雄三(えんどう ゆうぞう)氏
昭和44年(1969年)東京大学医学部卒。虎の門病院にて免疫検査部創設・部長、病理/細菌検査部長を務める。その後カナダ マクマスター大学健康科学部病理・分子医学部門客員教授、浜松医科大学第一病理非常勤講師、宮崎県都城市医療法人八日会病理顧問・看護学校顧問を経て、現在、東京脳神経センター(病理/内科)。免疫学・病理学・分子医学の立場からがん・炎症の研究を進め、発表した論文は110報以上。
<主な研究課題> 生活習慣病予防にかかわる食物、サプリメント、生活習慣病と公衆衛生、IgA腎症と粘膜免疫とのかかわり、頭痛と首コリの解消、人体病理学、臨床免疫学、実験病理学
・掲載1 はじめに
・掲載6 感染症予防には手洗い、うがい、そして免疫をケアしよう
・掲載5 細菌感染と抗生物質:抗ウィルス薬は細菌には効かない
・掲載4 ウィルス感染症の治療と予防:抗ウィルス薬、血清療法、免疫
・掲載3 風邪、天然痘とSARS、MERSそして変異型コロナウィルス
・掲載1 ウィルス感染と免疫システム
・掲載22 自己とは?非自己とは?(22)過敏性腸症候群/食物アレルギー
・掲載21 自己とは?非自己とは?(21) 大腸と腸内細菌
・掲載20 自己とは?非自己とは?(20) Bリンパ球/IgA
・掲載19 自己とは?非自己とは?(19) パイエル板
・掲載18 自己とは?非自己とは?(18) 消化管の蠕動(ぜんどう)運動
・掲載17 自己とは?非自己とは?(17)粘膜免疫
・掲載16 自己とは?非自己とは?(16)腸管免疫
・掲載15 自己とは?非自己とは?(15)免疫と消化管
・掲載14 自己とは?非自己とは?(14)ウィルスと自己
・掲載13 自己とは?非自己とは?(13)妊娠とABO式血液型不適合
・掲載12 自己とは?非自己とは?(12)移植
・掲載11 自己とは?非自己とは?(11)輸血と免疫
・掲載10 自己とは?非自己とは?(10)Ⅲ型アレルギー/自己免疫疾患
・掲載9 自己とは?非自己とは?(9)Ⅱ型アレルギー/血液型
・掲載8 自己とは?非自己とは?(8)抗生物質の発見/一型アレルギー/免疫グロブリン
・掲載5 自己とは?非自己とは?(5)急性炎症:日焼けと免疫反応
・掲載4 自己とは?非自己とは?(4)炎症
・掲載3 自己とは?非自己とは?(3)アレルギー
・掲載2 自己とは?非自己とは?(2)自己の確立②
・掲載1 自己とは?非自己とは?(1)自己の確立①
・掲載6 からだの防御システム(6)特異的免疫細胞たち:リンパ球
・掲載4 からだの防御システム(4)免疫ホメオスタシス/感染症と炎症
・掲載3 からだの防御システム(3)「食-医同源」
・掲載2 からだの防御システム(2)新型インフルエンザウィルス
・掲載1 からだの防御システム(1)はじめに:「病気」、「病態」そして「病 名」
・掲載21 頭頚部がん(2)
・掲載20 頭頚部がん(1)
・掲載19 多発性骨髄腫(3)
・掲載18 多発性骨髄腫(2)
・掲載17 多発性骨髄腫(1)
・掲載16 おとなの進行がんの治療戦略(2)
・掲載15 おとなの進行がんの治療戦略(1)
・掲載14 子宮がん(2)子宮内膜がん
・掲載13 子宮がん(1)
・掲載12 肝細胞がんに対する予防戦略 3)ウイルス排除と抗炎症対策
・掲載11 肝細胞がんに対する予防戦略 2)肝硬変と慢性炎症
・掲載10 肝細胞がんに対する予防戦略 1)肝細胞がんのおこり方
・掲載9 前立腺がんに対する戦略
・掲載8 乳がんに対する戦略
・掲載7 肺がんの予防戦略
・掲載6 環境要因による胃がん予防
・掲載5 大腸がんに対する防衛戦略
・掲載4 生活習慣病としてのおとなのがん
・掲載3 抗生物質から抗がん剤開発へ
・掲載2 現代医学と病理学
・掲載1 はじめに