これまでの数章では臨床的な面に焦点を絞って説明してまいりました。輸血、移植、妊娠、出産の意味について十分に理解していただいたことと思います。
いずれも自己と非自己との関係の中でさまざまな細胞レベル、サイトカインレベルの出来事がおこって生物現象全体として現れているのです。
さて、今回はウィルスと自己とのかかわりについてお話しすることになります。今回の章の大きな目的は、最後にひとつの重要な論文を引用することにあります。
はじめにウィルスとは何かです。ウィルスは生物とはいえず、単独では存在することは出来ません。ウィルスは特定のDNAあるいはRNAとそれを包むいくつかの糖タンパク質あるいは複合脂質からなる特定の構造物です。
つまり地球上の原始的な生物以前の増殖性構造物というべきでしょう。ウィルスは物質と同様に結晶化することができます。スタンレーがタバコモザイクウィルスを結晶化したことは有名の事実です。
ウィルスは細胞内に寄生することで存在し、宿主の核酸代謝系を使ってウィルスDNAあるいはウィルスRNAのどちらかを複製して増殖することが出来ます。つまり細胞内に寄生する物体というべきでしょう。
ウィルスと細胞の関係は全くランダムではありません。きわめて特異的な(1:1)関係があることは驚きです。ウィルスの表面物質と細胞との間に極めて厳密な関係が成り立っていますし、多細胞生物では免疫系の細胞たちとも厳密な関係が成り立っています。
また、何度か触れたと思いますが、細胞内は免疫系にとって最大の弱点であり、細胞内に潜伏されてしまうと手も足も出ません。つまり、液性免疫系の抗体分子の免疫グロブリンは細胞内には入り込めません。また細胞性免疫系細胞たちはウィルス感染した細胞表面に目印でもない限り攻撃することはできないからです。
たとえばヘルペスウィルスを取り上げてみましょう。ヘルペスは痛みの強い水疱性皮膚病変で、英語の発音は「ハーピース」となります。ヘルペスウィルスは大きく二種類あり、口唇ヘルペスと性器ヘルペスに分かれます。これらはお互いに移行はしません。厳密に寄生する細胞が決まっているのです。
この皮膚病変は免疫状態と密接にかかわっています。たとえばヘルペスに感染している学生が試験や人間関係などの強いストレスにより抵抗力が低下していると水疱が現れ、試験終了やストレス解消が水疱を消滅させてしまうという傾向があります。まれなことですが、ヘルペスウィルスが大脳に浸潤すると対称性に側頭葉をおかし、大脳辺縁系脳炎(limbic encephalitis)を発症することがあります。
類似したことは帯状疱疹でも起こります。末梢神経の神経細胞体に寄生しています。例えば肋間神経核や三叉神経核内の神経細胞体に寄生し、時折神経線維内に影響を及ぼします。従い、再発する場所は常に同じで、疲労やストレスによる免疫状態の低下と密接にかかわります。ある女性の皇族の場合に現れる帯状疱疹も同じことです。
日本人のほぼ100%はこのウィルスに感染したことがあるといわれています。どうやら感染したことがあるという既往抗体を持っているらしいのです。しかしこのことは、ほぼすべての日本人にこのウィルスが内在しているかどうか、どの程度の人々に内在しているのか直接証拠は正確にはわかっていないといえましょう。
このウィルスが体内に内在する場合、ある人々に「伝染性単核球症」という病気が起こります。これは全身の重要な臓器に、EBウィルスにより活性化したリンパ球が浸潤し、その場で免疫系と戦って炎症反応を起します。
そして多くの場合、かなり重篤な回復可能な全身病となります。このウィルスが巧妙に内在することは、アフリカや中国の地域限定に悪性リンパ腫(バーキットタイプ)の発生にかかわっています。またこのウィルスは日本人の胃癌のあるタイプの発生にかかわり、結核性胸膜炎に内在して続発する悪性リンパ腫の発生にかかわっていることが論じられています。
いずれも慢性化しやすい肝臓の炎症をひき起こします。いわゆる慢性肝炎や肝硬変です。これらのウィルスはヒトの肝細胞に強い親和性があります。寄生する相手はヒトの肝細胞であって、類人猿以外の動物の肝細胞には寄生しません。
したがって肝炎ウィルスの研究はサルを飼育する必要性があり、大変高額な研究です。手軽に動物を使って研究が出来なかったために、なかなか研究が進まなかったのです。この事実はウィルス性肝炎の感染のしくみや治療薬の開発の遅れに大変深く影響したのです。
肝炎が急性炎症で終わるのか慢性炎症となるのかは免疫系細胞と感染された肝細胞とのかかわりあいとなります。ウィルスが寄生している細胞を破壊(強い細胞障害性)しやすければ、ウィルスは免疫系に現れてくることになります。
こうなると、免疫系は強力な力を発揮します。ウィルスに対するさまざまな抗体が結合し、抗原と抗体の結合物は自然免疫系と獲得免疫系に重要な補体系の結合と活性化を起させます。
この抗原-抗体-補体の三者は免疫複合物といい、マクロファージの貪食作用の対象となります。これが体内からウィルスを排除(オプソニン作用)するしくみです。あるいは抗体に依存して感染肝細胞を処理するしくみ(ADCC)も力を発揮します。
つまり、ウィルス感染が慢性化するということは免疫系の監視をかいくぐり、ウィルスが肝細胞内にゲリラのごとく潜んでいて時折出没するからこそ起こるのです。
このウィルスはもともとサルに感染するウィルス種でSIV(simian immunodeficiency virus)といわれていました。今から約30年位前に中央アフリカの奥地でヒトとサルとの間で何かが起こり、サルのみに感染するはずのSIVがHIVに変異したと考えられます。
その後、北米のゲイ仲間に妙な感染死が発生し、後天性免疫不全症候群(AIDS)といわれたのです。AIDSは今までに経験したことのない感染症であろうと推定されました。
このウィルスはRNAウィルスで正式にはHTLV-IIIといい、RNAの塩基配列をDNAに読み返る逆転写酵素を持っているのが特徴です。この種類のひとつ(HTLV-I)は、沖縄、南九州、高知県から南紀州で、家族内感染による成人T細胞白血病を起すウィルスといわれています。南九州では独特な脊髄病変(HAM)を起すことでも知られています。
しかし、このウィルス感染者全員が病気を発症するとは限らないことが、ウィルスとヒトとのかかわりの複雑さと重要性を含んでいるのです。
SARSはいまや死語になりつつありますが、今から10年少し前には世界を震撼させた重症な呼吸器感染症でした。筆者がカナダで研究していた頃と完全に重なりましたので、実感として怖さを思い出します。
この感染症はグローバルレベルでの感染であり、国境を簡単に超えたことと、致死的である点が脅威でした。変異型あるいは新型ウィルスということばを定着させました。これはコロナウィルスというヒトに感染しないウィルス種の変異型だったとのことです。動物に感染する性質がヒト細胞に感染するように変異したことが重要でした。
トリインフルエンザウィルスやブタインフルエンザウィルスは、もともとその種にのみ感染するウィルスでしたが、ウィルス表面の物質が変異することでヒト細胞に感染するようになったのです。
トリインフルエンザの場合、空中からの拡がりが国境を超えており、コントロールの限界を超えているとのことです。渡り鳥のようにグローバルに拡がる可能性のあることが大変恐ろしいのです。
先進国では、ブロイラーの鶏や七面鳥、フォアグラの鴨など産業的に集団発生しやすい環境にあります。もし変異型インフルエンザウィルスあるいは新型ブタインフルエンザウィルスの感染が集団発生した場合の脅威は、まさに映画の「アウトブレイク」と同じ状況となるはずです。これらはヒトに感染する機会が驚異的に高いです。
牛インフルエンザはいまだ耳にしたことはないですが、牛には口蹄疫ウィルス感染があります。しかしヒトには感染しません。これは時々蔓延して畜産業界や地方自治体そして国の中枢をパニックに陥れます。
変異型トリインフルエンザウィルスと口蹄疫のパニックの時に、出張先の宮崎県内の都城盆地で厳しい防疫体制を目の当たりにしました。幹線道路は消毒用の白い石灰粉末で白い川のようでした。当時は東国原県知事の時代でした。後手に回ったとはいえ、最大限の防疫体制は効を奏したように思います。
以上のように、おもいつくだけでも多くのウィルス感染とヒトのかかわりが想起されます。忘れてはならないのが天然痘ウィルスで、これはまさに人類史上最大のウィルス感染症です。1980年にはWHOの宣言では天然痘は種痘(牛痘)の普及により根絶され、地球上から消滅したといわれています。ポリオウィルスも同じ運命をたどるであろうと推定されています。
痘とは皮膚や顔、眼球におこる円形の潰瘍で、縁に盛り上がりがあります。潰瘍面には膿汁などの浸出があります。回復したとしても潰瘍の後は、汚く残りいわゆる「アバタ=痘痕」面となりました。「アバタもエクボ」のアバタです。
古代中国では天然痘患者の皮膚の膿を予防と称して元気なヒトの皮膚に植えつけていたようです。当然天然痘に罹ってしまったわけです。医学の進歩のない時代には無知な際限のない経験は単なる試行錯誤でしかなく、テレビ番組の「仁」のようにはうまくまいりません。
しかし、さまざまな工夫や噂話などが治療方法を導き出す可能性を秘めていました。それを鋭敏に感じ取るか否かで、チャンスは無駄になったでしょう。
乳絞りのおばさん連中は元気で、天然痘にも罹りにくいようだといううわさは知られていました。牛にも天然痘に似た感染症である牛痘があります。ブタ痘や馬痘もあります。
資料(1)によりますと、イギリス人医師ジェンナーはひとりの看護師がブタ痘に感染したことに注目したそうです。その膿みを二人の看護師と自分の息子の皮膚に植えて、痘創ができた事を確認しました。
その後三人に天然痘を接種したのですが、数週間たっても天然痘は感染しなかったというのです。これは1789年の出来事で、ジェンナーはことの重大性を十分に認識していたようです。1798年に発表された彼の論文には牛痘を発症している乳絞りの女性の手と手首の図があります。この論文は牛痘接種による天然痘予防能力についての論文だったのです。
この事実は上述の6項のウィルス感染とヒトとの特異的関係性からいいますと、かなりひねくれた問題提起です。ウィルスとヒトという種、ならびに臓器細胞との特異的関係性のズレを利用してウィルス感染予防という液性免疫ワクチン療法の基礎になったという点で画期的なことだったからです。
ウィルスのことなど皆目わからなった時代ですら、このような奇跡的なことが起こりうることが科学性かも知れません。いずれにしましても、ウィルス感染と宿主の特異的関係性について明確な実験データを示したのは次の論文です。
これは1974年にNatureに掲載された獲得免疫(後天性免疫)に関するツインカーナゲルとドハテイの論文です。
この論文は発表から22年後の1996年にノーベル医学生理学賞に選ばれました。自己を標識する種特異的なHLA(MHC)分子複合体の同定と機能分析、そして三次元的な構造上のエックス線回折結果と画像解析により上記の実験の信憑性が証明されたわけです。
この論文は免疫グロブリン産生による液性免疫系の対極にある、獲得免疫系の細胞性免疫系の根本的なしくみを解明したことで革命的です。
あるウィルスに免疫を持たせたマウスのTリンパ球は同じウィルスに感染した細胞を殺傷できることを明らかにしました。ただし、殺傷できる感染細胞はTリンパ球を提供したマウスと同じMHCを細胞表面に発現しているものに限られるという事実です。
Tリンパ球が標的細胞を認識して殺傷するためには二つの必要条件があります。それはウィルス成分(抗原)が一致すること、感染動物自身に由来する複数のMHC遺伝子群が一致することです。
結局Tリンパ球表面にはMHC(HLA)という抗原提示受容体機能物質があって、この構造に限られて(依存して)感染細胞が殺傷されることがわかったわけです。これが細胞免疫系のキラーTリンパ球の存在を証明した論文でもあるのです。
このMHC(HLA)に依存することが種に特異的に感染することでもあり、殺傷することでもあるのです。MHC(HLA)の発現量は体内の細胞の種類によってさまざまで、ウィルスが細胞ごとの親和性の差が感染しやすさも決まることになるわけです。
文献:
資料1:マイヤー フリードマン、ジェラルド フリードマン著、鈴木 邑訳:医学の10大発見 Newton Press 95-131, 2000
資料2:Zinkernagel RM and Dohery PC: Restriction of in vivo T cell-mediated cytotoxicity in lymphocytic choriomeningitis within a syngeneic or semi-allogeneic syste. Nature 248, 701-702, 1974.
資料3:知の歴史.ネイチャー特別編集.158-167.徳間書店 2002
東京脳神経センター(病理/内科)
遠藤 雄三(えんどう ゆうぞう)氏
昭和44年(1969年)東京大学医学部卒。虎の門病院にて免疫検査部創設・部長、病理/細菌検査部長を務める。その後カナダ マクマスター大学健康科学部病理・分子医学部門客員教授、浜松医科大学第一病理非常勤講師、宮崎県都城市医療法人八日会病理顧問・看護学校顧問を経て、現在、東京脳神経センター(病理/内科)。免疫学・病理学・分子医学の立場からがん・炎症の研究を進め、発表した論文は110報以上。
<主な研究課題> 生活習慣病予防にかかわる食物、サプリメント、生活習慣病と公衆衛生、IgA腎症と粘膜免疫とのかかわり、頭痛と首コリの解消、人体病理学、臨床免疫学、実験病理学
・掲載4 「ホモ バネ仕掛け」の頚と「新型うつ」
・掲載3 首の構造と頭痛=頭皮痛のおこりかた
・掲載2 体験/炎症とは
・掲載1 はじめに
・掲載6 感染症予防には手洗い、うがい、そして免疫をケアしよう
・掲載5 細菌感染と抗生物質:抗ウィルス薬は細菌には効かない
・掲載4 ウィルス感染症の治療と予防:抗ウィルス薬、血清療法、免疫
・掲載3 風邪、天然痘とSARS、MERSそして変異型コロナウィルス
・掲載1 ウィルス感染と免疫システム
・掲載22 自己とは?非自己とは?(22)過敏性腸症候群/食物アレルギー
・掲載21 自己とは?非自己とは?(21) 大腸と腸内細菌
・掲載20 自己とは?非自己とは?(20) Bリンパ球/IgA
・掲載19 自己とは?非自己とは?(19) パイエル板
・掲載18 自己とは?非自己とは?(18) 消化管の蠕動(ぜんどう)運動
・掲載17 自己とは?非自己とは?(17)粘膜免疫
・掲載16 自己とは?非自己とは?(16)腸管免疫
・掲載15 自己とは?非自己とは?(15)免疫と消化管
・掲載14 自己とは?非自己とは?(14)ウィルスと自己
・掲載13 自己とは?非自己とは?(13)妊娠とABO式血液型不適合
・掲載12 自己とは?非自己とは?(12)移植
・掲載11 自己とは?非自己とは?(11)輸血と免疫
・掲載10 自己とは?非自己とは?(10)Ⅲ型アレルギー/自己免疫疾患
・掲載9 自己とは?非自己とは?(9)Ⅱ型アレルギー/血液型
・掲載8 自己とは?非自己とは?(8)抗生物質の発見/一型アレルギー/免疫グロブリン
・掲載5 自己とは?非自己とは?(5)急性炎症:日焼けと免疫反応
・掲載4 自己とは?非自己とは?(4)炎症
・掲載3 自己とは?非自己とは?(3)アレルギー
・掲載2 自己とは?非自己とは?(2)自己の確立②
・掲載1 自己とは?非自己とは?(1)自己の確立①
・掲載6 からだの防御システム(6)特異的免疫細胞たち:リンパ球
・掲載4 からだの防御システム(4)免疫ホメオスタシス/感染症と炎症
・掲載3 からだの防御システム(3)「食-医同源」
・掲載2 からだの防御システム(2)新型インフルエンザウィルス
・掲載1 からだの防御システム(1)はじめに:「病気」、「病態」そして「病 名」
・掲載21 頭頚部がん(2)
・掲載20 頭頚部がん(1)
・掲載19 多発性骨髄腫(3)
・掲載18 多発性骨髄腫(2)
・掲載17 多発性骨髄腫(1)
・掲載16 おとなの進行がんの治療戦略(2)
・掲載15 おとなの進行がんの治療戦略(1)
・掲載14 子宮がん(2)子宮内膜がん
・掲載13 子宮がん(1)
・掲載12 肝細胞がんに対する予防戦略 3)ウイルス排除と抗炎症対策
・掲載11 肝細胞がんに対する予防戦略 2)肝硬変と慢性炎症
・掲載10 肝細胞がんに対する予防戦略 1)肝細胞がんのおこり方
・掲載9 前立腺がんに対する戦略
・掲載8 乳がんに対する戦略
・掲載7 肺がんの予防戦略
・掲載6 環境要因による胃がん予防
・掲載5 大腸がんに対する防衛戦略
・掲載4 生活習慣病としてのおとなのがん
・掲載3 抗生物質から抗がん剤開発へ
・掲載2 現代医学と病理学
・掲載1 はじめに