女性ホルモンの影響を受ける乳がんと関連して、男性ホルモンの影響を受ける前立腺がんについて考えてみましょう。
前立腺はクルミ大で、唾液腺などと同じように分泌する腺組織で、精子を生き生きたもつ液体を分泌します。女性にも痕跡が残っています。前立腺は膀胱の出口である尿道をとりかこむように位置し、ちょうど蛇口のように位置しています。
ですから、男性で年をとっておこってくる排尿障害は、前立腺が大きくなることで尿道をしめつけておこることになります。これがお年寄りの前立腺肥大という良性の病気です。年とともにしばしばがんを合併してきますが、がんで排尿障害が起きたときはかなり進行したがんということになってしまいます。
したがって排尿障害という症状が前立腺肥大なのか前立腺がんなのかは大変重大な分岐点といえましょう。
最近の前立腺がん検診では血液中の前立腺特異抗原(PSA)の測定と超音波検査が重要です。PSAは前立腺肥大でも炎症をともなった場合などで多少高い値となることがあります。また初期の前立腺がんではPSAの異常がごくわずかのことがあります。ですからPSAの値が少しでもあやしい場合には、転ばぬ先の杖として、くわしい検査が必要なことがおわかりいただけたでしょう。
きめ手になる検査は前立腺針生検というものです。局所麻酔下で、尿道あるいは直腸から一定のやり方でスクリーニング針生検が行われます。超音波検査やCTスキャンといったハイテクの画像検査が進歩しており、前立腺の内部を細かい番地にしきってがんの局在を厳密に決めることも可能となっています。
一定の場所から取りだされた細いシリンダ―状の組織について病理組織検査がおこなわれ、顕微鏡的な最終診断が可能となります。前章の乳がんの注意と同様に病理組織検査報告書のコピーは是非頂くようにしましょう。
前立腺は男性ホルモンによって成長し、維持され、働いています。前立腺の上皮細胞からおこるがん細胞には男性ホルモンのアンドロゲンに反応する受容体を持っているものと持っていないものとがあります。
前立腺がんの予防には一般的ながん予防の抗酸化剤の補充と特異的な予防である抗男性ホルモン作用のある物質による抗ホルモン予防があります。
したがって、アンドロゲンに反応する進行した前立腺がんの究極の治療法は、アンドロゲンの産生源である睾丸を取って女性ホルモン作用のある薬物投与となりましょう。
私が病理学を専攻しはじめた頃は、壮年の前立腺がんはきわめてまれでした。もっぱら前立腺がんお年寄りのがんだったのです。しかも前立腺がんはできても年余にわたり局所にとどまっている潜在がんのことが多く、こわくないがんのひとつでした。一方、若い人の前立腺がんがまれに発生しましたが、がん細胞の増え方は速く、しばしば転移して致死的でした。
1980年代前半に報告された示唆に富む論文があります。米国の白人、黒人、コロンビア人、日本人(ハワイと日本)の男性について、他の原因でなくなった患者を病理解剖学的に調べ、前立腺の潜在がんについてくわしく検討しました。
おのおのの群では潜在がんの頻度は同じでも、致死的な前立腺がんの発生頻度は米国黒人、白人では頻度が有意に高いとあります。コロンビア人の頻度は日米の中間で、ハワイの日本人と続き、日本在住の日本人の罹患頻度が最も低い結果でした。
このことから二つのことが分かります。前立腺がんには世界的にほぼ共通したおとなしいタイプと外部環境の影響を受けて悪性度の強いタイプがあります。外部環境の因子として食習慣や食材の内容の差があげられます。
1)抗酸化剤としての野菜や果物の消費量、2)脂質の消費量と脂質の内容、3)大豆の消費量、4)魚や海藻の摂取量などが考えられます。
1998年の米国国立がん研究所の報告では、前立腺がんの罹患率は日本人、中国人男性が世界で最も低い群に属し、一方米国人男性の罹患率は著しく高く、特に黒人は日本人の罹患率の13倍でした。前述のように、北米に移民した日本人が比較的短い期間に前立腺がんの罹患率の高くなるという疫学調査もあり、これらのことから前立腺がん発生には食べ物が重要な役割を果たしていることが推察できます。
今までの調査研究によると、これらの原因として牛豚肉、脂肪分の多い食事、カルシウムの過剰摂取によるリスク増加があげられます。ニュージーランドの研究者が牛、豚肉、鶏肉の料理の仕方とその中の焦げ目に含まれるヘテロサイクリックアミン量を調べて前立腺がんの罹患リスクを調べたところ、焦げ目の多い牛肉ステーキをよく食べる人々で前立腺がんリスクが有意に高いとありました。鶏肉が最も低いリスクです。
この他に植物繊維は乳がんと同様に前立腺がん予防にも味方になっています。以下、代表的な食材について例をあげて説明しましょう。
リコペン
トマトの中に豊富に含まれるリコペンというカロテノイドという赤い色素ならびにそのほかの未知の物質は、動物実験レベルで前立腺がんの予防効果を示しています。リコペンには抗酸化作用がありますので、一般的ながん予防の力を発揮します。米糠から抽出されたバイオブランは抗酸化作用をもっており、こうした作用とともに免疫賦活作用が期待されております。
スイスのがん治療専門家のパイファー教授は男性ホルモンに反応しない進行した前立腺がんの治療のひとつにバイオブランをとりあげております。こうしたがんは前立腺がんとしても最も治療抵抗性のがんであり、ほかのがんとともに抗がん剤も効きにくい傾向です。トマトや米の胚芽といったありふれた食材のなかに対がん戦略の武器が潜んでいることがわかってきました。
大豆
疫学調査によると、日本人男性に前立腺がんが少ない主因は大豆製品の多い食生活にあるとする報告が多いです。大豆にはリグナンという植物繊維とイソフラボンという植物エストロゲン、サポニンなどの植物栄養素が含まれています。リグナンは全粒パン、胡麻、様々な種子、各種ベリー(イチゴ、ブルーベリーなど)、野菜、お茶にも含まれます。前述の通り、前立腺がん細胞は男性ホルモンのアンドロゲンで増えます。女性ホルモンのエストロゲンは前立腺上皮細胞のがん化を抑えます。大豆の植物エストロゲンにより前立腺のがん化を抑えることが示唆されます。
イソフラボノンのひとつであるゲニステインは抗酸化作用の他に上皮細胞増殖因子受容体のスイッチを切る作用があり、血管新生を抑えたり、ある増殖因子(TGFβ1)とかかわる実験結果も報告されています。大豆については前章の乳がんの項で詳しく述べましたので、参照して下さい。
ハワイの日系米国人8000人についての調査では、豆腐を豊富に食べている群で前立腺がんの罹患率が最も低値だったという報告があります。日本の男性と前立腺がんの罹患率の高いフィンランド人男性の血中大豆イソフラボン量を比較したところ、日本人男性の方が7-110倍という高値が示されました。
血中大豆イソフラボンは前立腺がん発症を抑えている可能性が示唆されます。さらに大豆由来のイソフラボンは前立腺がん、乳がん、大腸がんの予防だけでなく、血液中のコレステロール値を低下させ、脳、心血管疾患予防と多岐にわたって私たちの健康に役立っています。しかし有害な物質も大豆にはあり、動物実験で生の大豆を食べさせると、含まれているトリプシンという消化酵素の阻害物質によって膵がんを発症することがありますので、大豆は十分調理する必要がありましょう。
オメガ-3不飽和脂肪酸
スエーデンからの研究報告で、1886年から1925年までに生まれて双子として登録された人々に1961年と1967年にアンケート調査が行われました。その後の追跡調査の間に前立腺がんの罹患頻度と年齢、肥満度、食事内容(牛肉、豚肉、燻製やハムなどの牛豚肉、牛乳、果物や野菜など)、喫煙歴、飲酒歴、座り仕事、暮らし向き、運動の程度などとの関連を調べました。
これは平均年齢50歳代の6272人について最高30年間(平均21.4年)にわたる追跡調査です。この間に466人が前立腺がんにかかり、そのうち340人は死にいたる前立腺がんでした。魚を高頻度に食べる群は運動をよくし、タバコも吸い、野菜、果物をよく食べる人々が多い傾向で、前立腺がんの罹患率が低い結果でした。
しかし魚を食べなかった群の前立腺がん罹患率は魚をよく食べた群に比して2ないし3倍高い結果でした。魚を食べた量には前立腺がんの罹患率に有意な差は見られませんでした。双子の遺伝因子や生活習慣因子を調整しても、この結果は同じでした。魚はニシン、鮭、サバの寒流魚が主で、それらにはオメガ-3脂肪酸が豊富です。
これと同様な研究報告が最近相次いでいます。試験管レベルの研究としても魚油のオメガ-3脂肪酸はアンドロゲン受容体陽性のヒトの前立腺がん細胞の増殖を濃度依存性に抑えることが認められ、その作用はアンドロゲン受容体の有無とは無関係で、DNAに直接作用しているようです。
こうした最近の研究成果から、未治療例の前立腺がん患者に低脂肪でオメガ-3/オメガ-6比の高い脂肪酸の補助された食事を3ヶ月とってもらいながら、血液中の赤血球膜と生検した腰部脂肪組織の脂肪酸の構成、前立腺生検の病理組織像、そしてシクロオキシゲナーゼ(COX-2)の量を遺伝子検査で調べた研究報告があります。赤血球と脂肪細胞の細胞膜にある脂肪酸の構成は急速にオメガ-3が多くなり、病理組織像も改善し、COX-2の量が減少しました。COX-2酵素抑制が、大腸がんと同様に前立腺がん抑制に働き、その引き金をオメガ-3脂肪酸が引いている可能性があるという結果です。
国別や地域別の健康動向と食事内容の比較検討という疫学調査で、食事中の総脂肪量や中性脂肪摂取量と前立腺がんの罹患率の増加とが相関することが分かっていました。この調査は、発がん原因の間接証拠を拾い出すのに役立ちます。動物性脂肪酸に多く含まれるオメガ-6脂肪酸の摂取量の増加も前立腺がん罹患リスクの増加とかかわっていることがだんだんわかってきました。
前項で、魚油のオメガ-3脂肪酸が前立腺がん罹患リスクを下げる働きのあることを示しました。これらの研究には、私たち日本人やイヌイット(エスキモー)に前立腺がんの低い頻度という事実が影響しています。
5万人レベルの大がかりのアンケート調査とその後の4年間の追跡調査で、この間に前立腺がんになった人々とならなかった人々それぞれの食習慣を分析した結果、魚油には少ないオメガ-3脂肪酸で善玉脂肪酸とよくいわれているアルファリノレン酸が前立腺がん罹患リスクを高める結果となりました。これは今までの常識に反する結果です。この点は更に検討が必要ですが、次のような報告があります。
南米のウルグアイでは前立腺がんは肺がんに次いで罹患率が高く、人口10万人あたり35.2人です(1990-1992年調べ)。この原因の一つに、高い牛肉の摂取量と、その中に含まれるアルファリノレン酸が指摘されています。最近の6論文中5論文でアルファリノレン酸と進行前立腺がん罹患リスクの上昇の関係が追試、再確認されています。今後の研究動向に注目したいところです。
まとめますと、過度の加熱調理した動物性脂肪、牛豚肉をひかえて、魚の脂肪やオリーブオイルが勧められます。しかしオメガ-6脂肪酸やアルファリノレン酸は、前述の通り植物オイルに含まれますので控え目にした方がよいことがわかります。
アルファリノレン酸の含まれた大豆油やアブラナからのオイルの消費が多い北米、西欧に比して、地中海沿岸のオリーブオイル消費地帯では前立腺がん罹患率は相対的に低いことが知られています。オリーブオイルが健康には最高の植物オイルということが再認識されます。
アルファリノレン酸はマヨネーズ、市販のサラダドレッシング、マーガリン、バター、牛豚肉に含まれていますので、これらを習慣的に食べることは前立腺がんの罹患リスクを高めます。サラダドレッシングの材料の植物オイルなどをあまり食べ過ぎないようにすることが大事でしょう。
大豆製品、ニンニク、ひかりものの魚はおすすめです。生トマトより、加工されたトマトソース、トマトピュレーがおすすめです。トマトケチャップは第二選択としてよいでしょう。ニンニク、ビタミンD、ビタミンEやセレンという重金属の微量摂取は味方です。オメガ-6植物オイルはひかえめにしてください。ベータカロチン、特にお酒のみは控えめにしましょう。吸収されるやすいカルシウムは程々にしましょう。牛、豚肉そしてとくに焦げ肉は避けましょう。
東京脳神経センター(病理/内科)
遠藤 雄三(えんどう ゆうぞう)氏
昭和44年(1969年)東京大学医学部卒。虎の門病院にて免疫検査部創設・部長、病理/細菌検査部長を務める。その後カナダ マクマスター大学健康科学部病理・分子医学部門客員教授、浜松医科大学第一病理非常勤講師、宮崎県都城市医療法人八日会病理顧問・看護学校顧問を経て、現在、東京脳神経センター(病理/内科)。免疫学・病理学・分子医学の立場からがん・炎症の研究を進め、発表した論文は110報以上。
<主な研究課題> 生活習慣病予防にかかわる食物、サプリメント、生活習慣病と公衆衛生、IgA腎症と粘膜免疫とのかかわり、頭痛と首コリの解消、人体病理学、臨床免疫学、実験病理学
・掲載4 「ホモ バネ仕掛け」の頚と「新型うつ」
・掲載3 首の構造と頭痛=頭皮痛のおこりかた
・掲載2 体験/炎症とは
・掲載1 はじめに
・掲載6 感染症予防には手洗い、うがい、そして免疫をケアしよう
・掲載5 細菌感染と抗生物質:抗ウィルス薬は細菌には効かない
・掲載4 ウィルス感染症の治療と予防:抗ウィルス薬、血清療法、免疫
・掲載3 風邪、天然痘とSARS、MERSそして変異型コロナウィルス
・掲載1 ウィルス感染と免疫システム
・掲載22 自己とは?非自己とは?(22)過敏性腸症候群/食物アレルギー
・掲載21 自己とは?非自己とは?(21) 大腸と腸内細菌
・掲載20 自己とは?非自己とは?(20) Bリンパ球/IgA
・掲載19 自己とは?非自己とは?(19) パイエル板
・掲載18 自己とは?非自己とは?(18) 消化管の蠕動(ぜんどう)運動
・掲載17 自己とは?非自己とは?(17)粘膜免疫
・掲載16 自己とは?非自己とは?(16)腸管免疫
・掲載15 自己とは?非自己とは?(15)免疫と消化管
・掲載14 自己とは?非自己とは?(14)ウィルスと自己
・掲載13 自己とは?非自己とは?(13)妊娠とABO式血液型不適合
・掲載12 自己とは?非自己とは?(12)移植
・掲載11 自己とは?非自己とは?(11)輸血と免疫
・掲載10 自己とは?非自己とは?(10)Ⅲ型アレルギー/自己免疫疾患
・掲載9 自己とは?非自己とは?(9)Ⅱ型アレルギー/血液型
・掲載8 自己とは?非自己とは?(8)抗生物質の発見/一型アレルギー/免疫グロブリン
・掲載5 自己とは?非自己とは?(5)急性炎症:日焼けと免疫反応
・掲載4 自己とは?非自己とは?(4)炎症
・掲載3 自己とは?非自己とは?(3)アレルギー
・掲載2 自己とは?非自己とは?(2)自己の確立②
・掲載1 自己とは?非自己とは?(1)自己の確立①
・掲載6 からだの防御システム(6)特異的免疫細胞たち:リンパ球
・掲載4 からだの防御システム(4)免疫ホメオスタシス/感染症と炎症
・掲載3 からだの防御システム(3)「食-医同源」
・掲載2 からだの防御システム(2)新型インフルエンザウィルス
・掲載1 からだの防御システム(1)はじめに:「病気」、「病態」そして「病 名」
・掲載21 頭頚部がん(2)
・掲載20 頭頚部がん(1)
・掲載19 多発性骨髄腫(3)
・掲載18 多発性骨髄腫(2)
・掲載17 多発性骨髄腫(1)
・掲載16 おとなの進行がんの治療戦略(2)
・掲載15 おとなの進行がんの治療戦略(1)
・掲載14 子宮がん(2)子宮内膜がん
・掲載13 子宮がん(1)
・掲載12 肝細胞がんに対する予防戦略 3)ウイルス排除と抗炎症対策
・掲載11 肝細胞がんに対する予防戦略 2)肝硬変と慢性炎症
・掲載10 肝細胞がんに対する予防戦略 1)肝細胞がんのおこり方
・掲載9 前立腺がんに対する戦略
・掲載8 乳がんに対する戦略
・掲載7 肺がんの予防戦略
・掲載6 環境要因による胃がん予防
・掲載5 大腸がんに対する防衛戦略
・掲載4 生活習慣病としてのおとなのがん
・掲載3 抗生物質から抗がん剤開発へ
・掲載2 現代医学と病理学
・掲載1 はじめに